U快楽の家
「苗床の妃」より

「写真を撮り始めたきっかけは?」

「三十代の頃、前妻に「写真程度の運動をすればどうか」と勧められて。」

「では、写真作家になろうと決意した理由は」

「現在、着色している山崎(由美子)に誘われて京都造形大学のワークショップの初期講座を受けました。
その時の授業で講師として飯沢(耕太郎)さんがいらして。飯沢さんに「これならなれるよ」っていわれたことから。

何となく成り行きという感じです。撮り初めて三年くらいしか経っていなかったし。エロを撮っているというスタンスでいたし。決してアートでも写真でもないと思っていた。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


94年頃、当時の作品


「非常に繊細で耽美的な芸術写真という印象が強いのですが、写真と芸術との関係を意識されることはないということですか。」

「写真を撮る時に「芸術」というものを意識したことはありません。撮り始めた頃は、自分の満足いくエロ写真を撮ろうという感じでした。
今もアートは意識していないです。自分の性的妄想を追い求めています。

ただ、僕を信じてモデルをされている方のことを思うと、世間からはアートとして作品を捉えられることが望ましいとは思いますが、自分だけのことであれば、それも頓着しないです。」

アートとしてではなく、一種のリハビリとして開始された撮影行為。「自分の妄想」を追求し、「満足いくエロ写真」を完成させることが目的というなら、あるいはプライベート写真に近いのかもしれない。
さて、リハビリとして始めることになった写真だが、当然のことながら、当時の村田氏の健康状態からいって撮影時間も撮影場所もかなりの制限を受けることになったようだ。



「廃屋のような、独特の日本家屋でよく撮影されていますが、撮影場所について何か話してください。」

「撮り始めた時、体の具合が悪い時でした。二時間の撮影で、後は寝込んでいたような。外出はできないので、撮影場所は自ずと自宅。屋根裏と座敷を利用しました。

昔、サラ・ムーンなどに憧れました。そのような雰囲気で撮影しようとするのだけれど、ここはフランスではなく日本であり、どうしてもサラになりようがない。
結局、諦めてしまいました。そのことも踏まえ、自分のありようから、繋がりのあるものから、そういう土壌から成り立つ撮影をしようということになりました。で、自宅です。」

障子や畳など古い日本家屋に特有の直線的イメージと淫らなヌードの曲線との絶妙なハーモニーや、純和風の室内と洋風ボンデージとの危ういバランス感覚は村田作品の魅力の重要な要素となっているが、撮影に使われている和風建築はやはり彼の自宅だったのである。

ファンであるなら、作品の舞台となった場所を詳細に知りたいと思うのも当然であろう。
村田氏は、庭と建物で一〇〇坪くらいの「中途半端に古いだけのつまらない純日本家屋」と謙遜しておられるが、現代では貴重な昭和初期の建築物であるそうだ。

「庭は中央で垣根により二分されています。門を入って玄関や勝手口へ向かう通路のある庭と座敷から眺望するための庭。
祖父は庭を苔生しさせ、溺愛していましたが、父にはその趣味はなく、今は不格好に剪定されています。

また中途半端に修復され、アルミサッシなど入れてある部分があります。
壊れたままのほうが趣があり好きなのですが…

そのような中途半端な日本家屋で、撮影に堪える場所を選びます。
主に二階の座敷、屋根裏部屋、裏門への通路、蔵などを利用しています。
特に屋根裏部屋は一見西洋風、東洋風の境が分からないので好きです。
この部屋は大きな荷物やタンスなどを二階に引き上げるための部屋です。
床に大きな引き戸があり、それを開けると一階の土間が見えます。
そして梁には滑車が取り付けてあり、土間から屋根裏部屋に引き上げる訳です。」

精神を蝕む病が村田氏から行動の自由を奪い、彼を暗い密室に閉じ込めることとなった。
だが、その呪うべき不自由さから、繊細な美がエロスとタナトスによって崩壊していくような独特の作風が生まれたともいえるかもしれない。マルキ・ド・サドの酸鼻を極めたポルノグラフィーが牢獄から生まれたように…

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「痴蛙」より