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04.12.27
今日、母の入院に付き添って大きな病院へと行った。病室は12階の病棟で、主治医が来るまで病院内を見学した。
地下にある売店に華やかな表紙の女性誌が数冊並んでいる。青白い蛍光灯で照らされた其処に写るタレント達は何処か異界の住人のように見え、今居るこの地下ですら現実味のない夢の景色のように感じさせる。

akubi嬢と月初めにお会いした。この時に閃いた撮影案のテストを26日にしました

本格的に撮影するのは来年の一月下旬から。右はテスト画像。


04.12.25
very merry X'mas!! と歌が流れてクリスマスが過ぎる。
ここ数年は毎年このシーズンだけはジョン・レノンを聴いている。その前は久しぶりにボブ・デュランがマイブームだった。
本当に今年の12月は師走と言った感じでゆっくりと物思いに誰もふけさせてはくれない。過ぎ行く街の喧騒を優雅に眺めるのは大晦日だけになりそうだが、その日は残念ながら喧騒もないだろう。
and a Happy New Year !

右の画像はクラシカルな蛇腹カメラで撮影したもののフィルムスキャナー画像。カビのせいか天然のソフトフォーカス、何処かピントも甘い感じでトーンも柔らかだ。暗室でのプリントが楽しみである。


04.12.14
数日前、突然訃報が届いた。ついひと月前までお元気だった方なので、気持ちの整理がつかず何日も戸惑っていた。
その方はもう80歳を越えご高齢にもかかわらず、2000年の大阪での個展にわざわざ京都からお見えになった。
「二年前、京都であなたの個展を見てから、毎月かかさずあなたの個展をカメラ雑誌で探していた」と肩で息をしながら話されたのを憶えている。

私は98年に個展を3回催し、それからしばらく面倒で止めていた。ご老人のこの言葉に私はとても申し訳ない思いに駆られた。それから氏の為に京都で個展をと考え去年に開催した。しかし残念ながら氏とは一足違いで会えず仕舞いだった。
いつも思うことだが、その時その時もっとしっかりと付き合って居れば良かった。

右の画像はHP上の作風と異なると思い一度削除していた画像だが、生前、氏が気に入られていたので掲載する。

 

04.12.8
今日は太平洋戦争開戦記念日だったり、ジョン・レノンが殺された日だったりするが、そんな事は遠い日のことのようだ。
中国がIBMを買収したりと世の中はどんどんと変わっていく。これは時間が流れている限り止む事はないだろう。

年末はいつも宗教書を読んでいる。今年は仏教。
仏教の事は大体知っていると思っていたが、思いの外理解していなかった。
読んでいるのは経年変化や国によって歪められる前の出来る限りブッダの言葉に近いもの。
縁起の思想は遺伝子学のようである。兎に角面白く感動する。本当に優れた哲学だ。

12月は免許の更新、車検、忘年会、等などと雑用が多い。また11月に済ませるはずのプリントがそのまま残っている。
今日、やっと10月撮影分のプリントを開始した。 右の画像がそうである。着色して仕上げる。
散漫な文章だが、毎日も散漫だ。

 

04.12.1
今日、恋月姫さんの人形展のオープニングパーティへと 夕方より京都へ行く。
同行はいつもお手伝いくださる羊くん(♀)モデルのakubi嬢、そしてモデルと着色の山崎。

以前、恋月姫さんのドールは所謂ビスクドールサイズのものしか見たことが無かった。
今回は1メートルを越える大きな間接人形が9体も展示されてある。
これだけのサイズになると彼女の世界がより鮮明となり、最早人形というよりは、アンニュイな表情をした触れる事を許されない「永遠に女性なるものが」横たわっているようである。
恋月姫さんの話によるとこの大きなサイズは今回が初めてだと言う。

 

04.11.25
この度、12月1日より恋月姫さん初の本格的な人形展が京都で開かれます。
随分昔、東京で人形屋佐吉さんからその人形を見せて頂いた時の惹きこまれるような魅力は今も鮮明に残っています。
人形の小さな体の回りにひとつの宇宙が在るように見えました。

恋月姫初の本格人形展覧会
「ルナティック・パンテオン〜月の神殿」
■ 会期:2004年12月1日〜25日 12:00〜20:00(無休)
■ 会場:ARTZONE(アートゾーン)
■ 住所:京都市中京区河原町三条下ル 一筋目東入る大黒町44VOXビル1、2階
■ TEL&FAX:075-212-9676
■ 入場料1000円

尚、詳細は右の画像をクリックしてください。

 

04.11.23
今日、ちょうど生まれた年1957年製のトイカメラを購入した。まあるいファインダーも愛らしい赤いボディの「フジペット」である。
そしてもう一台購入した。こちらはその十年前1947年製、当時人気のあった大人のカメラ、マミヤ6・W(4)型。
マミヤ6はムッシュー・ムサイ氏が使用していて、その味のある描写に心惹かれていた。
どちらも66判の四角い画面でレンジファインダーカメラだ。
こうして作品に使用しない66判カメラが5台になってしまった。

下の段の写真は「厳島神社」を中国製のトイカメラ・ホルガで撮影したものだ。「りんね」に出てくる広島ドームもこれで撮影している。どちらの写真も撮影は山崎。
去年よりこの何処にも焦点のあっていない、解像度の悪いカメラが気に入っている。
解像度より諧調を優先している。細部は良くは見えないがドコカ穏やかである。
何故か精緻な写りの66一眼レフや二眼レフはホトンド作品に使う気になれない。
緻密で真四角というのが息苦しいのかも知れない。

しかしこのホルガ、写りは好みだけれどあまりにも作りが悪い。光線漏れから始まりその悪さを書けば限りが無い。何よりプラスティックのちゃちなボディだ。意味の無さない焦点リング、固定絞り、固定シャッターである。
そこで代替品としてフジペットとマミヤ6を購入したのだが、マミヤ6は写りが良過ぎるかも知れない。
しかし
50年前のフジペットを購入して初めて「モノ作り日本」の底力を感じた。
50年前の玩具とは思えないフェティシスムに耐える外観と機能である。
こちらもプラスティックレンズ、銅鏡、ボディであるが所々金属やメッキ等がある。
絞りも3段階ある。何より精巧で愛らしい。
これ以上書くとホルガファンに怒られるし、何よりホルガと同じ様な味のある写りをしてくれるかは不明である。

右上の写真の中央がフジペット、左下がホルガ、右下がマミヤ6である。道具でないカメラを購入する事はちょっとした幸福である。


04.11.16
東京オリンピックの年に亡くなった祖父はやたら神様を集めていた。
家の一角が神棚で埋め尽くされていた位だ。
しかし神通力は無かったのか、祖父は何度も会社を倒産させてしまった。
親父は無闇に本を買いうず高く溜めていく。特に仏教書が多い。
しかし未だに解脱は出来ていない。
私の部屋は自分の本を全て処分して、所謂着せ替え人形で埋め尽くされている。
人形 は20年程前、仕事で使用したのがきっかけで集めだしたものだった。
この収集は何をもたらすのだろうか。

今日、モデルさんがご友人の草壁コウジ氏を連れられ遊びに来た。
その時、彼女が高校時代この家に初めて来た感想を聞く事が出来た。
他人が自分をどう感じたか聞くのは楽しい。
「ものすごく変な人だと思った。雰囲気もそうだけど、特に部屋の中にすごい数の人形が置いてあったから」

確かに変であると思う。何か行為を果たせるモノでなく、動かして遊ぶわけでもなく、ましてやアートというわけでもない。ただ数多く飾ってあるだけ。
自分でも何度か、無駄なような気がして整理してしまったことがある。
すると何故か部屋に居ると居心地が悪くなる。なんとなくすきま風が吹くような寒々しさを感じるのだ。そして仕方なくまた出してくる。

そう言えば今年、ドイツの出版社の方が来た時、多くの人形を見てこれらを撮影して写真集を出さないかと企画を立てられた。何か彼のインスピレーションを刺激するものが在ったのだろう。私にも写欲が無くは無いが、人形には全て著作権があるので面倒だとお断りした。

集めている時は結構コレクションとして収集していたが、熱が冷めた今は多くはどうでも良い存在だ。
しかし、それまで在った人の形をしたモノタチが消えてしまうと何とも心もとない。不思議なものだ。これがヒトガタでなかったらもっと感じ方は違うかも知れない。
祖父も神棚を処分出来ずにいた。まあ相手は神様だから滅多な事は出来ないだろう。
私の場合は相手はヒトガタだ。やはり粗末には扱えない。当分このままだろう。


04.11.7
今日は3週間ぶりに撮影をした。撮影をしたというか、ちゃんと動いた初日だ。
前回の撮影以来やはり首が痛くて大体が一日中テレビを観ている毎日だった。
子供の頃も若い頃も余りテレビを観ない方だった。
しかし近年、テレビばかり観ている。体が不調だと特に見る。

NHKや教育テレビの特集や講座ものが面白い。次に民放の深夜番組。昼はもっぱらワイドショーである。ドラマは観ない。
そう言えば森茉莉は鴎外が存命だった華やかな頃と一転して、晩年は貧乏生活の中、テレビを観てはエッセーの中で番組の愚痴をこぼしている。
私も来るべき老後の楽しみとして、少しテレビを控えようかと思う。

右の画像はテストのデジカメ画像。今年2月から撮り始めたシリーズ。
長くかかったが今日で終了である。

04.10.27
15日から17日までの撮影の後、18日より筋肉痛で10日ほど寝込んでしまった。
ムチ打ちのように首が痛くてたまらない。カイロプラクティクに行くと筋肉を傷めていると言われた。
ここしばらくはPCの前に座る気もせず、更新が出来ないでいた。
しかしながら、今回の撮影はタイトなスケジュールの中、とても満足のいくものであった。

右は山の野池でのラストショット。デジカメテスト画像である。


04.10.14
先日の連休は夏の疲れが出たのか、珍しく風邪を引き寝込んでしまっていた。
明日からは遠方のモデルさんに飛行機にていらしていただき撮影となる。

今回は初めて本格的に蔵の中を撮影場所に使ってみようと考えている。
そのお陰でというか、そのせいで、この数日、何十年も放置されていた蔵の中の荷物を放り出し、徹底的に掃除をしていた。病み上がりにはきつい作業だったが、家族友人の協力を得て何とか済ませた。
まあ甲斐あって床は黒光りするほど綺麗になり、しばし見とれてしまった。

04.10.3
早いものでもう10月だ。
猛暑が続き、大阪は10月だと言うのに1日の気温が30度を超えていた。そのせいか未だまだ夏だと思っていた。

ここ何年も常に人が見る事を意識した作品を作っている。
作品を作り始めたときは自分自身の為のものだった。
そういう意味で何処か、作品と自分の意識の間に隔たりが出来てきた。
人が見ると言う「ふるい」にかけたものでなく、今一度自分の意識深くに問いかけて見たいと思い始めている。
欲望は分かりやすいけれど、意識を紐解くのは結構難しい事だ。 見たくもないものも見えてしまう。

右は今日の撮影のデジカメテスト画像。 作品はモノクローム作品に着色を予定。


04.9.25
最近やたら慌しい。
8月は暑くてホトンド何もせずTVばかり観ていた。
9月は夏バテで寝てばかりいた。
そのツケが9月の中頃から押し寄せて来て、怒涛の嵐の如くである。
海外の出版社に対する発送の〆切は9月末日だった。

着色されていない写真の選別と着色。
海外に発送する為のプリント317枚の整理、梱包。
驚いたのは海外発送に5万円前後かそれ以上かかると判明した時だ。
値段がはっきりしないのは方法によっていくらでも高くなるからだ。
317枚の印画紙は10キロ近くなる。それを確実安全に空輸しようとすると
とんでもない値段になってしまった。
おまけに英題をまだ考えていない。40話以上あるタイトルを英訳するのは難しい。
原話のある昔話はそのまま英訳されたものがあるが、オリジナルは自分で適当に考えなくてはならない。
英語での詩的センスを求められても英語に明るくはない。

結局、全てがいつものように〆切を10日程延ばして頂いた。
駄目な日本人だ。


04.9.8
最近、家がよく揺れる。台風、地震と立て続けだ。

大昔、私が4歳の頃だ。「台風の目」というものを見たことがある。
この台風は後に第二室戸台風だと知った。
その頃、家族は平屋の小さな借家に住んでいた。 風雨が強くなり、私たち兄妹は押入れの中に入れられた。
押入れから覗くと父が玄関の戸に畳を立てかけ、必死に押さえている。
風に扉をブチ抜かれるとそのまま裏庭へ風が抜けて、家財道具も子供も飛び散り、天井が抜けて屋根を持っていかれるからだった。
しかし小さな頭は事を了解していないので、必死に戸口を押さえ付けている父の形相が、アニメのようで非常に可笑しかった。
窓から外を見ると、川向こうの古い家の屋根が持ち上がり飛んで行くのが見える 。これにもワクワクした。

そして、しばらくすると突然風が止み、辺りは静まり返った。
母に呼ばれ裏庭から空を見上げると
黒く低く垂れ込めた雲が辺り一面渦を巻いている。
しかしその中心にはポッカリと大きな穴が開き、空高く青空が広がっていた。
そして彼方に白い雲が流れていた。
まさに異次元が覗いているようだった。
台風の目を見たのは後にも先にもこれ一回きりだった。
それからまたしばらく経つと嵐の続きが始まった。

しばらく体調を崩されて療養されていたモデルさんが復帰された。
2月頃に中断していた作品の続きがまた再開できる。
今日は次のづき位に撮影するであろうテストをしていた。

 

04.8.30
先日、ストア派、エピクロス派などと書いていたが、書物を読むにつれ、この名付けに関しては両極端な派閥だが、その真理に関してはどちらかと言えば近似するものがある。
また非常にブディスムに通じるものがある。
本当のことは時代や国が変わっても、また両極から論じてもそんなにも変わらないと言うことかも知れない。

ところでオリンピックはやはり見てしまった。結構楽しめたが、また「薬と金の問題」が話題になった。
マラソンも元来「マラトンの戦い」から由来している。戦争や闘いから由来する競技が殆どだ。
元々スポーツ、競技というものは戦闘格闘の一種であったり、代理戦争、模擬戦争であったりする。そんなものにクリーンなイメージを追及する方が可笑しいのかも知れない。
これは極論なので本気にしないで貰いたい。

右は土曜日に撮影したもののテストデジカメ画像。


04.8.20
最近、ストア派の哲人セネカの著書を読んでいる。彼はローマの暴君ネロに仕えていた。
ネロからいつ殺されるか分からないそんな状況で思索していた。
私が読むのならばエピキュロス派ではないかと思われるかも知れない。
しかし、最近の欲望垂れ流し教育で出来上がった世の中を見ていて、欲望追求の姿に空虚と嘔吐を感じる。
自由さに不自由をして、欲望に溺れて苦しんでいるようで辟易する。
我慢 が出来ないと言う事は小さな暴君を産んでいる。彼等の心は不自由である。
・・・しかし、自分でも最近書いている事が説教親父のようだと思う。


04.8.8
先日、前回撮影の続きを撮り足した。今回は6人で撮影行脚。
蒸し暑いせいか結構辛い撮影となった。わずか3カットだが、モデルの志穂さんにとっても辛い体位が続いた事と思う。
現像はまだなので仕上がりは分からないが、報われる結果を確信している。

帰り道、前も見えない大雨と停電に見舞われた。
川の土手を走る車の車窓からはモノクロの空が広がる。四方に走る神のいかずちは掻き曇った空を縦に綺麗に切り裂き閃光していた。
そして風が涼しくなり、立秋を感じる事が出来た。

右の写真はデジカメによるテスト撮影。


04.8.2
生物の進化はその種の数を増やす事で、多岐に渡り様々に姿を変え数を増やしていった。
その種の数が地球創生以来最大に増えた2億5千万年前、スーパープルームという地球の核から直径1000キロに及ぶマグマが地表に吹き上げるという惨事が起こった。
その結果温暖化が進み、深海のメタンガスが噴出し酸素濃度が1/3に激減した。そして生物の95%が死滅したと言う。
以上 は今日テレビで見た番組の内容だ。

しかし遺伝子に抜かりはなかった。酸素効率の良い気嚢を持った鳥の祖先、爬虫類が生き残りその栄華は恐竜時代と言う巨大化することによって演出された。
人類の祖先もその低酸素時代に横隔膜を持ち、胎生という、卵より遥かに効率の良い子孫を残す方法も編み出していた。
そして6500年前、地球は直径10キロの巨大隕石の落下のせいで氷河期を迎え、恐竜は絶滅する。
しかし遺伝子は同時に進化させていた哺乳類をその氷河の時代を乗り越えるだけの能力を与えていた。

遺伝子は常に不測の事態を考え、あらゆる種類の生物を枝分かれさせ創生進化させている。

「SELFISH GENE」と言う著書がある。「利己的遺伝子」と訳せる。
一時この著書は私を大いに憂鬱にさせたことがある。
遺伝子は自分たちが生き延びる為には手段は選ばない。動物もひとつのカーゴ(乗り物)とみなしていると言う内容だ。
人間の愛も神の存在でさえ、この遺伝子の戦略のひとつのようだ。
人は恋と呼ぶ脳が分泌するホルモンによって欲情し性交を繰り返し、生まれた子供を愛と呼ぶ感情によって守り育てようとする。これらの事で遺伝子は自分のコピーを確実に増やしていく。

女性が「禿げ」を極端に忌み嫌うのは父となった男性がひとつの家庭を守り、確実に子供を成人させる為の戦略だと言う。
元々男性は遺伝子の命令により自分の種を方々へ撒きに行く習性がある。
しかし、其処かしこで女性に産ませっぱなしでは子供が上手く育たない。そこで遺伝子はある年齢に達したならば、男性を禿げるようにした。それも生殖活動がより活発なオスに狙いを絞って。
他のメスに相手にされないオスは自分の家族を養う事になるという訳だ。

神の存在は死を恐れることなく戦へと人を向かわせる。何故なら死んでも神の国が待っている。自爆テロを考えるまでもなく、死を恐れない兵士ほど強いものはない事は容易に想像出来る。
勝利によってその種族の繁栄に貢献し、結果より強い遺伝子を残す事が出来る。

当然の如くエロティシスムと呼ぶものも遺伝子の戦略のひとつに過ぎない。子孫繁栄の一翼を担っている。
自虐的に見れば何の役にも立たないと思っていた私の作品も、遺伝子レベルで見ると立派に貢献しているのかも知れない。これが当時の憂鬱の主因だった。私は感情的な人間であり、主観と共に生きていたいからだ。
天啓だと思う閃きも、神を感じる瞬間もすべて遺伝子の囁きだと思うと随分とつまらないものになる。

因みに一リーグ化しようとするプロ野球や統合を繰り返すメガバンクは、遺伝子的に見て明らかに衰退の道を選択している。

右は今日プリントしたモノクロプリントの一枚。完成作品は遺伝子レベルで見て優位と思われる着色を施される事になる。



04.7.25
先日の24日、川沿いにあるとある廃墟で撮影をした。
ここは五月にも使ったが今回はこの廃墟のキッチンを中心に撮り進めた。
モデルの志穂さんは身長も高くてモードな感じが漂う。その辺の魅力を無理に抑えていただいた。
暑さとガラスの破片、蚊の攻撃など受けながら4時間の撮影であった。

右はテスト用のデジカメ画像。


04.7.23
下記の文章では、自分は全てクリアしたような印象を与えてしまったかも知れないが、
長年患ったものはそう簡単に完治はしていない。
現在、未だに体力は人並み以下だし、外食も会食も苦手だ。
すこし疲れると食事がうまく喉を通らなくなる。
また40年近く付き合いのある不眠症は治る気配は全くない。
しかしまあ、作品を作り続けられる事でよしとしている。

 

04.7.17
私は最近老眼が進んで、読書や釣り、字を書く時にも老眼鏡は必需品となる。
今ではこの老眼鏡なしでは生活出来ない状況は厄介で鬱陶しく思えるが、当初はすこしうれしくもあった。

私は相馬氏の評論中にもあるように10歳の頃よりノイローゼ、今で言うところのパニック障害児童であった。突然襲う呼吸困難でいつ死ぬかとそればかりが不安で毎日毎日、死を意識して生きていた。当時はこの病は目新しく教師達も医師達もほとんど為す術がない状況だった。
今から40年近く昔の話だ。
勿論周りの理解など得る事の出来る時代ではなくて、親からも親族からもただの「のら(怠け者の意らしい)」と呼ばれていた。
死に怯えて学校に行けない小学生は親からも自分からも「自分は怠け者である」と思い込んでいた。
しかしいくら自分を叱責しても親から殴られても治るものではなかった。
友人達にも勿論理解される事はないので、ただ悪を気取って「学校なんて行きたくないだけさ」と言っていた。
しかし自分は本当に苦しく不安で、当然19歳くらいで死ぬだろうと思っていた。
何故19歳なのか? 根拠はないが成人出来ないだろうと子供心にそう考えたのだろう。

しかし、過酷な精神状況のまま二十歳を迎え、死なない自分の将来により大きな不安を抱えるようになった。
小学から大学までほとんど学校にまともに出席していない。こんなことではサラリーマンは勤まらないのではないかと危惧していた。そして自分の文章力と画力の向上を目指して、なんとか外に出なくても口に糊出来る職業に付く事になる。

しかし、20代もやはり死の影が其処かしこに在った。
生きていくのがものすごくしんどいのである。いつも漠然と死を恐怖するのと同等に死を願望していた。
夕方になると南港に車でダイビングする事を夢想したりする。実際に車の運転はいつも無謀なものだった。漠然とした自殺願望だった。
生活も荒れていて、とても体に良い生活とは呼べるものではなかった。
ただひとつ言える事は、荒れた生活が出来る程には元気であったという事だ。
しかし因果は巡り、過労を期に30歳を前にして大きな発作に襲われて、そこから10年近く寝込む事になる。

この10年の状態は先の思春期から青年期の最悪だと思っていた状況とは比べ物にならない程に非道いものだった。以前のどん底と思っていたものは「上げ底」のどん底だった。
食べ物は喉を通らず、毎日深夜0時に素麺を一束食すので精一杯であった。
常に緊張状態で水すら喉を通らない事もしばしばだった。
体重は一気に20キロ減った。

眠る事が何日も出来ないで幻聴が聞こえてくる。疲れて睡魔が襲うが、入眠と同時に体が痙攣して驚いて跳ね起きる。そんな地獄のような日々が続き、もう死にたいなどと考える余裕すらなくなってしまった。

当時、親父から「不憫だ」と言われるのがもっとも腹立たしい事のひとつであった。自分で自分の人生を哀れに思いたくもなければ、他人にそんな風に思われる事にプライドが許さなかった。
しかし今思い返すと、なんと哀れな人生だと自分が可哀想に思えてくる。
自分で不幸だと思えないほど不幸だったのだろう。

そんな非道い状態から脱したのは複数の要因が絡む。
先ず第一に義母の死。阪神大震災。
そして体に働きかけるものでは「カイロプラクティク」と言って骨のズレを矯正する治療、気功、漢方薬。
私は小学生の時、発病する数年前、顔面から滑り台から落ちている。
この時にどうやら首の骨がずれてしまったらしい。これを矯正すると驚いた事に全く不安が襲ってこなくなる。食事も普通に喉を通るようになった。

神経質だと思い込んでいた自分の性格は「骨のズレ」から起因しているもので、自分の本来の性格でない事にこの時初めて気付いた。
骨のズレに性格を左右されていた事がひどく悔しく思えた。

ただ10年も寝たきりだったので、骨を支える筋肉がなく直ぐに骨は元に戻りまた不安がぶり返す。骨の位置を治すとまた改善するの繰り返しだった。筋肉を付けなければならなかった。
そして体力の回復に気功や漢方薬を試してみた。

気功のことは書くと長くなるので今回は省略する。
漢方薬は「霊黄参(れいおうさん)」というものが劇的に効果があった。
月6万円の薬代だったが、半年でものすごく体力が回復した。
漢方医の言う事によればそれまで飲んでいた精神安定剤や睡眠薬などで、ボロボロの内臓を回復させたそうである。
そして次の苦しみはこの精神薬を体から抜く事であった。
この話も長くなる。ただ言える事は新薬は一時楽になるが、習慣化した後はその倍の苦しみが待っているという事である。
本当に飲まないと自殺しかけない程ならば仕方がないが、唯の憂鬱なら飲むものではない事は確かだ。何故なら確実な麻薬であるからだ。
ただ下手に止めるとショック状態になるから厄介である。
最近では薬を抜く為の専門の病院もあるらしい。

・・・・・・・・・書いていて、話が横道に逸れ過ぎて何を言いたかったのか分からなくなった。

確か老眼の話だった。
そう、言いたいのは「自分が老眼鏡をかける歳まで生きているとはユメユメ考えた事がなかった」ということである。
なのでその眼鏡を必要とする自分が本当に在り難いものだと思い、これまで生きて来るのに助けてくれた人達や神と呼べる偶然に多大な感謝をして、この老化を受け止める事にした。

現在、右の画像の老眼鏡を鞄や家中の其処かしこに置いてある。数は写真の倍は有る。

 


04.7.13
梅雨明けとともに屋根裏部屋の掃除を久しぶりにした。
床には何足かハイヒールが転がっていて、中に白のピンヒールがひとつ埃にまみれている。
後の二つはもっとボロボロで捨ててしまう事にした。

この白いピンヒールは右の「灰かぶり姫」の撮影の為にわざわざ購入したものだ。
踵の部分に金の飾りがあり、これが決めてとなり少し高価だったが買ってしまった。
そして今日、購入以来初めてこのヒールを清めワックスをかけた。
傍から見ると靴フェチの変質者だろうか。 しかし靴磨きも掃除も好きである。
洗濯アイロンがけなどは愛しているくらいだ。
なのに今までこのヒールを何故磨かなかったのかは謎である。
真っ白なものを触るとそれだけで汚れそうで怖かったのかも知れない。

04.7.12
先日イタリアより美術雑誌「UOVO」が届いた。この中で私の作品が紹介されているのだが、
発売は当初3月と聞いていた。しかし5月になっても何も言ってこない。
メールで問い合わせたら、謝罪文の後に
「The UOVO8 has been delayed a first time due to a change of format, then a second time due to a printing problem.」
と返事が返って来た。
流石ラテンの国、のんびりとしたものである。
そしてやっと7月に発売されたようだ。

一応内容は「作品紹介パート2」にて掲載している。

04.7.5
先日テスト撮影をした。
今回、撮影する志穂さんには4ヶ月もお待ちいただき、やっとテストが出来た。
ものすごく個性的な方なので直ぐに撮影案は立ちそうである。
独自のコケティッシュなものをお持ちだが、敢えてその部分を削ぎ落として撮影させていただくつもりである。 削ぎ落としても付いてくる来るくらい強いものがある。

それは風貌から出てくる精神波なのか、気持ちが体現しているのかは知らない。
人は思い通りに進化するし、思いもよらない変化が現れることもある。
私も進化や変化を人生において楽しみたいと思う。

右はテスト撮影のデジカメ画像。


04.7.1
7月 2日17時〜19時舟越桂彫刻写真展オープニングがあります。写真は豊浦正明氏。
豊浦氏 は15時より在廊予定だそうです。
これは船越桂氏の写真とは関係ないのだが、豊浦氏のモデル志望の方などは是非オープニングに参加されればどうだろうかと思います。
詳しい地図などはこちらへ。

右の画像は写真展展示作品より。