2003年制作雑記
03.6.30
もうすぐ今年の折り返し地点に来る。
昔はそんな風に 時を分けて考えるのは凄く嫌っていたが、最近では年寄りのように時間や季節をとらえるようになった。
時間は連続しているが、自分にとっての有限性を感じ始めたからだろうか。

昨日より暗室にこもり、五月撮影分のプリントを始めている。 20点あるので全部で400枚くらいのプリントとなる。
7月はこのプリントと8月の撮影分のコンテで時間が埋められてしまいそうだ。
今まで出来る限り真夏の撮影は避けてきたが、諸事情により ひと月後ぐらいに撮影を予定している。右はデジタルカメラによるテスト撮影。ドール風に撮影しようと目論んでいる。

03.6.26
今回の個展中、色々な方と宴を催した。初日はスナイパー編集長渡邊安治氏と評論家の相馬俊樹氏、作家、編集者大勢で。二日目はフェティスム写真の大御所、豊浦正明氏とそのモデルさんやご友人と。
元モデル嬢には築地でお寿司をご馳走になった。これは有り難かった。

一週間を過ぎた頃、一年程前お会いしている現代美術家の諏訪敦さんとギャラリーのオーナーと三人で飲みに行った。
スペインリアリスムの冷徹なイメージと合い重なり、諏訪氏の視線はより冷たく鋭く思われた。しかし作品の中には厳しい風貌とは凡そ似合わない何処か体温を感じさせる 優しげな女性像も描かれる。
諏訪氏はHPでモデルも募集されているのでご興味のある方は是非のぞいていただきたい。右は諏訪氏の作品である。
因みに私は彼の数少ない風景画がとても好きである。

画像の著作権は諏訪敦に帰属します

03.6.25
6月12日より銀座での個展の為上京していて、やっと本日夜中に大阪へ帰って来た。
21日には帰
阪予定であったが、色々と打ち合わせなどの予定が押してしまい、今日となってしまった。
13日から25日までの個展の開催中色々な方にお越しいただき有り難うございました。
またギャラリーのオーナーをはじめスタッフの方には並々ならぬご尽力、ご厚意をいただき感謝の限りです。

今回の個展を傍観していて思ったことをひとつ。
ここ最近、私の個展での女性客の占める割合が男性を凌いで来ている。女性一人の方、二人で来られる方。色々だが・・・
ギャラリーの受付の方と話をしていたのだが、今回特に目立ったのが男女のカップルであった。
特に押し並べて女性客の方が熱心にファイルなどをご覧いただいている。
私にとっては、男性である私の性妄想に女性が熱心にお付き合いしていただいている姿が不思議でたまらない光景であった。


03.5.28
先日に引き続き、今回撮影したイメージのデジタルカメラ画像である。
暗室作業が大量に押しているので、これのプリントは随分と先になると思われる。

今日、SMスナイパー7月号に掲載されている自分のインタビューと評論記事を見た。私自身より中身がありそうに描かれているのが何ともこそばゆい感じである。それにしても相馬氏の文章は切れがあり素晴らしい。


03.5.27
25日から三日間「真珠姫」とタイトルしたものの撮影をしていた。
モデルの方は遠く飛行機を乗り継ぎお越しいただいた。三日というタイトなスケジュールでの撮影で慌しかったので、フィルムの仕上がりを見るまではとても恐い状況だ。
右はデジタルカメラ映像。作品はモノクロームに着色となる。

03.5.11
今日、仮題「春画」を撮り終えた。去年の11月くらいから撮り始めて尽く失敗していたが、やっとの完成である。モデルの方には本当に何度もご足労願い申し訳ない限りだ。
右の画像はシリーズのオープニングとなるイメージである。テスト用のポラロイドである。自作自演は疲れる。物の怪と交わると言うストーリーで、物の怪が闇に乗じて現れるシーンである。


03.5.6
4月の個展では、色々な 人と話が出来た。次は6月に銀座である。
先日「ヴィクトリアン・ヌード展」を神戸市立博物館へ観に行った。刺激を受けることはなかったが、19世紀当時のヌード写真もあり楽しめた。

5月4日に 4月16日の撮影の続きをする。関節人形のように撮影しようと考えていたが、 撮影途中で別の妄想に惹かれて行き、全体に違うイメージになる。
自分が写りこむというシーンもボツにする。右はボツシーンのデジタル画像。

お知らせであるが、
5月下旬に発売のSMスナイパー7月号で相馬俊樹氏によるインタビューと評論、自分の作品が掲載される。これは是非とも読んでいただきたいテキストである。相馬氏の文章が絶品である。


03.4.20
今日は以前頓挫していた「春画」をイメージしたもを撮り直していた。
春画とは程遠くなってしまったが、物の怪が少女をかどわかすと言うもので、今までにないイメージで楽しく撮影が進んだ。
右の画像は多分ストーリーの最終コマとなる。
物の怪が霧散して髑髏と蛙が残るシーン。
右はその時のデジタルカメラ映像。作品はモノクロームに着色となる。

03.4.16
4月22日から大阪心斎橋で個展がある。これからその準備に追われることになる。

先日、試しに撮影した時、モデルさんの体が思いのほかやわらかく 、そのポーズの異様さを見ていて壊れた関節人形のような気がした。
もう少し、この感じを試してみようと思う。
右はその時のデジタルカメラ映像。作品はモノクロームに着色となる。

03.3.27

右の図版はベルメールの作品だ。作品紹介の「ベルメールの娘」はこの図版が典拠である。
しかし、右の図版はコピーを重ねたもので、本来柔らかな鉛筆デッサン のベルメールのタッチが損なわれていて、見ているうちに何だかエゴン・シーレではないかとある日思い始めた。
そう思ったのにはもうひとつ訳がある。
エゴン・シーレならば、このような図版を描く動機はある。

ペニスを持った少女は男性を必要としない、閉じられた性を持つ。
彼は妹を溺愛していた。作品中にもよくモデルとして現れる。
この最愛の妹を他の男に取られない為には、彼女は雌雄同体として完結すればよいのである。
そうすれば彼女は独立した性を持ち、シーレと共に過ごすことが出来ると言う訳だ。
しかし、シーレはその様な妄想は描かなかったようだ。
それは私の妄想でしかなかった。


03.2.25
右の絵は23日に撮影したもののデジタルカメラ画像である。作品は印画紙に焼いたモノクロプリントに着色される。
今回の作品は一応、すべての撮影が終了した。後は暗室作業と着色だけである。


03.2.24
ここのところ花粉症が出始めている。鼻がつまり、目が痒く、薬を飲むと眠くなる。

眠い頭で、幼少の頃、藤田嗣治の絵が好きだったという事を最近思い出した。
右の絵が眠り姫に対するエロティックなイメージを抱く芽となったのか、またはシンパシーを感じただけなのかは今となっては分からない。
眠る女性の周りを猫や獣が取り囲んで覗いている。なんとも秘密めいていて露悪的だ。
しかし覗いているのは獣である。
淫らな寝姿を前に誰も犯すことも手に触れることも出来ないのである。
見事なエロスの疎外感だ。

右は数年前、テイトギャラリーで見たサー・ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」である。
この絵画が前ラファエロ派かどうかは知らないが、それ風だ。
昔は前ラファエロ派は好きでなかった。ところが、自分が写真を撮り始めてから、その舞台装置の上のような絵画に親近感を抱くようになった。
このオフィーリアのイメージも秀逸なものだと思う。一度、女性を湖面に浮かべてみたい。
私自身、件の派に親近感を抱くのには、舞台装置とモデルに重きを置いているところだろうか。
「奴等はモデルがいなければ絵も描けないような腐れ頭だ」と言われるほどにモデルとなる女性から多くの霊感を受け、絵筆を走らせた。
自分自身のイメージが一番重要であるが、残念ながら写真作品などは被写体がないとそもそも存在しないのである。

03.2.13
雲がひくく垂れ込め、暗鬱とした灰色の世界 というのが二月の印象だ。その底冷えの中、夜窓を開けると遠く春の匂いがした。しかし最近の暖冬でそのイメージが少し薄れている。

ゴシック・ロリータとはフェティシスムに似ているが、ストイックで武装されたイメージがある。その姿は挑発しているのか、ガードしているのか殆どの男性は戸惑うであろう。そうした二律背反をこの思想(ファッション)は内包しているように思われる。しかし彼女達は元来そのような男性側の思惑など意に介していないのであろう。

今日、前回に続いての撮影の日であった。
右は前回撮影のフィルムをスキャンしたものである。


03.2.5
今年の初撮影は2月2日であった。節分の前日、季節を分ける前に撮影出来る事となった。
モデルの方は小柄な方で、ゴシックなロリータ衣装を沢山お持ちである。テスト撮影時に、イメージとして糸で吊られた人形を 想起した。そのイメージのままコンテを考えるつもりである。
右の画像はテスト時のデジタル画像である。 作品としては使用しない。

4月心斎橋での個展タイトルが決まった。「廃園の姫たち」である。以下、プレスリリース用に制作された文章を掲載しておく。

「写真から魔術的イメージが消えて久しい。昔写真は「魂が抜かれる」と信じられるほどに呪術的であった。 暗い部屋で妖しげな液体に紙を浸して像を浮かび上がらせる作業は、まるで中世の魔女のようである。 村田の作品群は昔々のおとぎ話の姫たちが時の変節を経て、朽ち果てた館や庭園で今尚魔女の呪いによって「死と再生を繰り返し」現代に生きのびているが如く映し出されている。 デジタルカメラで手軽に日常を映し出す現在において、村田のモノクロームプリントに筆で色を重ね作り上げる手法は何とも魔術的なことであろうか。 今回、心斎橋・ナダールにて二年ぶりの個展となる。 「乱暴な姫たち」(評論家・飯沢耕太郎氏命名)によるシリーズ中から最新作ばかりを展示する。作品は村田には珍しく屋外で撮影のものを多く含んでいて「廃園の姫たち」と題されている。」


03.2.1
そろそろ4月の個展のタイトルを決めなくてはならない。新たに撮影案も出さなくてはならない。6月の個展の日程も決まった。こちらのコンセプトもはやく決めなくてはならない。
しかしこのひと月、テレビばかり観ていた。テレビは滅多に観ないのだが、一度嵌(ハマ)るととことん観てしまう。一つのことしか出来ない性である。
ひたすら一つのことにのめってしまうこの性格は多々問題を起す。ここ3年、ルアーフィッシングに嵌り、一日中ブラックバスのことが頭から離れなかった。
15年ほど前は死のイメージから離れなれなくなり、自律神経を病み殆ど廃人であった。10年間死のイメージに襲われ、衰弱しきっていた。体重も20キロも減っていた。
その死のイメージを払拭させる為に、性的イメージを撮影し始めた。
エロスは死と良くなじみ、無我夢中で撮っていた。
そこには無意識に魔術的な再生願望が込められていた。

右の作品は「亡き王女のパバーヌ」の使用しなかったイメージである。
仮タイトルを「病少女」としていた。右の写真をラストにしようと撮影したが、救いがないような気がして、ラストは撮り直し現在のものとなる。


03.1.7
今年の方向性は「魔術的」という言葉で進もうと思う。
ここ数年、新たに進む道が見つからず随分と迷走したが、02年も暮れる頃、ブルトンと相馬氏の紹介する絵画や写真を見るに求めるべきものが見えてきたような気がする。

あらゆるものが科学で語られる21世紀に今更「魔術的」でもないと思われるかも知れない。何せ神が創り給うたこの宇宙は神と共にいずれは焔に飲み込まれ熱死すると分かっているのだ。
しかし、 私は合理性と科学だけでは味気なくて生きてはいけない。 とは言っても怪しげな心霊の類を信じる気にもなれないだが。
自分が魂だと信じているものが、脳の中に微かに走る電流であろうとも、精神まで唯物論で犯されたくはないのだ。人には信念という妄想が時には不可欠である。
妄想の中、私は新たな美しい魔方陣を描きたいと願っている。

右の図版は相馬氏の蒐集のひとつである。誠に奇怪で静謐な素晴らしい光景である。